「え?」
父と話していると、この一文字が増えました。
私は看護師です。難聴を放っておくとどうなるか、仕事で毎日のように見ています。
それでも父は、補聴器をつけてくれませんでした。
「まだ大丈夫だよ」
「補聴器って、高いんでしょ」
知識があっても、身内は動かない。同じ思いをされている方、きっといらっしゃると思います。
でも先日、父のほうから「これ、最初はどこの病院に行けばいいのかな」と言ってきました。
動いたきっかけは、私の説明ではありませんでした。

何回言っても「大丈夫」って言うんですよね……
マスク越しの声が、父には届かない
父が耳の衰えを気にし始めたのは、一年くらい前からでした。
聞き返すことが増えた。テレビの音が大きくなった。
本人がいちばん先に気づいていたんだと思います。
昨日もLINEで話していて、父がこう言いました。

マスク越しに話されると、ほとんど何を言ってるかわからないんだ
これを聞いたとき、あぁそうか、と思いました。
マスクをしていると、口の動きが見えません。私たちは思っている以上に、相手の口を見て言葉を補っています。聞こえにくい人にとって、マスクは音だけでなく、手がかりごと奪ってしまうんですよね。
外来でも、施設でも、マスクをはずせない場面はまだたくさんあります。
父が困る場面は、この数年でむしろ増えていたことになります。
本人は「歳だから仕方ない」と言います。
でも私は、仕方ないで済ませたくありませんでした。
同窓会に8人。補聴器をつけている人は、一人もいなかった
半年ほど前、父の高校時代の同窓会がありました。
出かける前に、私は父に頼んでみたんです。

きっと補聴器つけてる人もいると思うから、どんな感じか聞いてみて
これはちょっとした作戦でした。私が百回説明するより、同級生が一人「つけてるよ」と言ってくれたほうが早いと思ったからです。
旅行から帰ってきた父に聞きました。

8人くらい集まったけど、誰もまだ補聴器はしてなかったなぁ
その言い方が、少し寂しげでした。
このとき、私は自分の思い違いに気づきました。
父が補聴器をつけないのは、意地でも、見栄でもなかった。周りに、一人もいなかったんです。
補聴器のことを調べると、「年寄りに見られたくないから嫌がる」という説明をよく見かけます。
でも父を見ていると、そこじゃない気がしています。
自分だけが先に、あちら側に行くことになる。
同じ年の8人が誰もつけていない部屋で、自分だけが最初の一人になる。
それがどれだけ心細いことか、私は考えたことがありませんでした。
聞こえの話は、こういうところが難しいんですよね。
目が悪くなればメガネをかけます。
誰も驚きません。教室にも、職場にも、メガネの人はたくさんいるからです。
補聴器には、その「たくさん」がまだありません。
もうひとつ、メガネとの違いを教えてくれた人がいます。60代の夫です。
この記事を書いていると話したら、「俺は補聴器なんて使わないよ」と即答されました。
なんで、と聞いたら、こう言われたんです。

だって、メガネと違って自分は困らないじゃん
妙に納得してしまいました。
見えないのは、自分が困ります。だからメガネをかける。
でも聞こえにくさは、聞き返せばなんとかなってしまう。もう一度言ってもらえば済む。
本人にとっては、そこまで困っていないんですよね。
じゃあ、誰が困っているんでしょうか。
私も、聞こえない人に話しかけなくなっていた
ここからは、少し書きにくい話をします。
私の職場に、耳が聞こえにくいスタッフがいます。
デイサービスでは、利用者さんのことを小声で伝えたい場面が一日に何度もあります。
ご本人の耳に入れたくない申し送りって、どうしてもあるんですよね。
その人には、それが届きません。
「え?」と聞き返されます。もう一度言います。また聞き返されます。どうしても伝えなければいけないことは、すぐそばまで行って、大きな声で言います。
でも現場では、利用者さんのことを大きな声で話せない場面のほうが多いんです。
そうしているうちに、私の中で何が起きたか。
どうせ聞こえないから、と、話しかけるのをやめている自分がいました。
伝えなくてもいいことは、伝えない。ちょっとした雑談は、別の人とする。悪気はありません。
忙しいから、という理由もつけられます。
でも、やめているのは事実でした。

あ、私、この人に話しかけてないな
そう気づいたときのばつの悪さを、まだ覚えています。
難聴の方は認知症が進みやすい、と言われることがあります。
私はそれを、聞こえないと脳への刺激が減るから、という説明で理解していました。
でも現場で起きていることは、もっと単純で、もっと切ないものでした。
周りが、話しかけるのをやめてしまうんです。
本人が黙るのではありません。周りが黙るんです。そうやって、その人の一日から言葉が減っていく。
これは私が現場で感じていることで、研究でこう証明されている、という話ではありません。
それでも、父のことを考えるときにいちばん頭に浮かぶのは、この光景です。
公開講座で聞いた『ぜひ、補聴器を使おう』
先日、認知症の公開講座を聞きに行きました。
認知症になりやすさに関わる要因が14個あることが、2024年に医学誌ランセットで報告されています。運動、睡眠、食事、社会とのつながり。そのなかのひとつに、難聴が入っています。
登壇された朝田隆先生は、14個のなかでも難聴のところで語気を強めて、こうおっしゃいました。
ぜひ、補聴器を使おう
会場で聞きながら、私は父の顔を思い浮かべていました。
もうひとつ、質疑応答で心に残ったことがあります。
「どんな指導をされていますか」という質問に対して、先生は「気になる変化が出はじめても、そこから元の状態に戻っていく人がいる」「戻っていく人には共通点がある」という話をされました。
モチベーション、生きがい、まわりから認められたいという気持ち。
それが強い人は動くし、変わっていく、と。
逆に、人の話を素直に聞けない人は難しい、とも。
このときはまだ、これが父の話につながるとは思っていませんでした。
この日に聞いた「認知症の人は、実は減っている」という話は、別の記事にまとめています。

父が動いたのは、同級生の話を聞いた日だった

先日、父が電話でこう言いました。

この前会った人がね、15万円くらいの補聴器をつけ始めたんだって
金額まで覚えていました。
それだけよく聞いていた、ということだと思います。そして声の調子が、同窓会のときとは違いました。寂しげではなく、どこか前のめりでした。
その流れで、父のほうから聞いてきたんです。

これ、最初はどこの病院に行けばいいのかな
一年です。
私が「聞こえないと困るよ」「認知症のリスクにもなるんだよ」と言い続けた一年ではなく、
同じ年の誰かが先に始めた、そのひとことで父は動きました。
講座で聞いた話の通りでした。人は、正しさでは動かない。
もうひとつ、思い当たることがあります。
以前、父にこう言ったことがありました。

聞こえない人には、まわりが話しかけなくなっちゃうよ
これは職場で私自身がやってしまっていることなので、説明ではなく、白状でした。
父はそのとき何も言いませんでしたが、あとから考えると、あの言葉は少し残っていたのかもしれません。
危ないから、ではなく、さみしいから。
「自分は困らない」と思っている人に届くとしたら、たぶんそっちの言葉です。
娘にできたのは、LINEを1本送ることだけ
とはいえ、父はまだ補聴器を買っていません。聴力検査も、まだ受けていないはずです。
もともと病院が大嫌いな人なので、ここがいちばん高いハードルです。
なので昨日は、話をここまでにしました。

耳鼻科で検査してもらってから、補聴器をつけたいんだけどって言えば、紹介してもらえるんじゃない?
そのあと、家の近くの認定補聴器専門店を調べて、LINEで送りました。
補聴器は、買って終わりの道具ではありません。つけ始めてから何度も調整して、その人の聞こえに合わせていくものです。だから、どこで買うかで満足度が変わってしまう。父にはそこだけ伝えました。
私がしたのは、それだけです。
背中は押していません。「早く行って」も言いませんでした。
行かなかったらどうするの、と思われるかもしれません。
そのときは、そのときだと思っています。
説得しようとしていた一年で、私は何も動かせませんでした。動いたのは、父の中で「行ってみようかな」が生まれたときです。だったら私の仕事は、その気になった日に、迷わないようにしておくことなんじゃないかと思うようになりました。
行き先がわからないと、人はそこで止まってしまいます。
耳鼻科の名前と、専門店の場所。それを知っている状態にしておく。選ぶのは父です。
もし今、同じところで足踏みされている方がいたら、最初の一歩は購入ではなく検査だけでいいと思います。「買いに行く」と「調べに行く」では、本人の心の重さがまるで違いますから。
それに、聞こえにくさの中には治療で良くなるものもあります。耳鼻科で診てもらうと、そこから分かります。
順番だけは、間違えないでください

ここだけは、お金の話をさせてください。
補聴器は、耳鼻科より先にお店に行ってしまうと、損をすることがあります。
ひとつは、医療費控除です。日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会が認定した「補聴器相談医」に診療情報提供書を書いてもらうと、購入費用が医療費控除の対象になります(国税庁が取扱いを示しています)。
この書類は、買う前に書いてもらう必要があります。
もうひとつは、自治体の助成です。
私はこれを、東京の話だと思っていました。ところが調べてみたら、私の住む市でも、去年から始まっていました。 父の市にもありました。制度がなかったのではなくて、私が知らなかっただけでした。
〇〇市 補聴器 助成
検索してみてください
ただ、条件は自治体でずいぶん違います。私の市は50歳以上が対象でしたが、65歳以上のところもある。必要な聴力の程度も違います。そして「補聴器相談医」の意見書でないと受け付けない自治体もあります。ここは先に確認してください。ふつうの耳鼻科でよいところもあるので、行ってから分かると二度手間になります。
もうひとつ、私の市には先着300人という枠がありました。予算が決まっているんですね。
調べておく理由が、ひとつ増えました。
なお、申請より先に買ってしまうと対象外になるところがほとんどです。
制度の有無も条件も違うので、市区町村の高齢者福祉課や障害福祉課に聞いてみてください。
どちらも、耳鼻科が先、お店が後。この順番さえ守れば間に合います。
では、いちばん最初に何をすればいいか。耳鼻科を1軒決めて、電話で2つ聞くだけです。
「補聴器相談医の先生は、いらっしゃいますか」
「市の補聴器助成の意見書は、書いていただけますか」
補聴器を扱っている耳鼻科でも、自治体の制度まですべて同じように案内できるとは限りません。
はっきりしないときは、市区町村の窓口に「この病院で大丈夫ですか」と聞けば教えてもらえます。
私も父の市に問い合わせて、そこまで確認しました。
「補聴器って高いんでしょ」と言う親御さんに、これは伝える価値があると思っています。
補聴器をつける理由ではなく、聞こえることの先にあるもの
私はずっと、父に補聴器をつけさせようとしていました。
認知症のリスク。転倒の危険。看護師として知っていることを、順番に並べて説明していました。
ぜんぶ本当のことです。
ただ、補聴器をつければ認知症を防げる、という単純な話でもありません。
でも父が知りたかったのは、たぶんそこではありませんでした。
同窓会で「誰もつけてなかったなぁ」と言った父が、ほしかったもの。それは、つけている人が普通にいる景色だったんだと思います。自分だけが最初じゃない、という安心。
だから今は、こう考えるようにしています。
補聴器をつける理由を説明するのではなく、聞こえることの先にあるものを一緒に見る。
孫の話が聞き取れること。同窓会で、隣の人の冗談に笑えること。
私が、父に話しかけるのをやめずにいられること。
首から上の「あれ、おかしいな」は、放っておかないでほしい。目も、耳も、鼻もです。
先送りにしているうちに、補聴器をつけてもうまく聞こえるようにならなかった方を、何人も見てきました。目のほうでも、受診が遅れて視力が戻らなかった方を知っています。
戻らなくなってしまうことがあるんです。
だから私は、自分の中で日数を決めています。
人には2週間と言いますが、自分は10日を過ぎたら必ず受診すると決めています。
医学の基準ではありません。現場を見てきた、私のものさしです。
気になることがあれば、早めに相談してみてください。
早めの相談は遅いよりずっとメリットがあります。
もしご家族の耳が気になっているなら、説得しなくて大丈夫です。
行き先だけ、そっと調べておいてあげてください。
その気になった日に、迷わずに行けるように。
うちの父も、まだ途中です。一緒にゆっくりいきましょう。🌿
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